私にとって旅は心の栄養を与えてくれるもの 
懐かしの旅
1987年2月20日〜25日

波乱の出発
1987年2月20日
2002年1月現在、通算で8回のハワイ旅行を私は経験しており、当然の事ながらハワイが好きである。しかし私のハワイ歴の創めは決して順風満帆と言う訳では無かった、今回は私が最初に行ったハワイ旅行を振り返ってみたい
初のハワイへの扉は思わぬ所から開いた、それは会社の営業キャンペーンである。「優良成績者にはハワイご招待」その様なキャンペーンをやっているのは知っていたものの、まさか自分が行けるとはサラサラ思ってもいなかった。
ただで行かせて貰えるのは嬉しいが、内心は少し面倒でもあった、旅の参加者は7名で皆むさ苦しい男ばかり、しかも私が一番年下である。便利使いされるのは目に見えているし、特にハワイが好きな訳でもない。こんな事なら休みと小遣いを貰って温泉でも行った方が良いのである。そんなこんなで気の重い出発となった初ハワイである。
しかしてそのツアー内容は、航空会社が中華航空、出発は羽田空港さらにツアー会社は聞いたことも無い「さ○○かツアー」と言う条件で、私を不安にするのに充分な条件であった。
大きな不安を抱いて羽田到着、明るく賑わう国内線ターミナルを尻目に、どよ〜んとした暗く寂しい国際線出発ロビー、そこに集まった7人は直前の仕事が祟り疲れきった表情で口数も少い・・・
さながら北帰行集団である、とてもハワイへ向かう一団には見えなかったであろう。
かくして機中の人となった後もまだまだ試練は続き、シートベルト着用サインが点灯状態のまま機体は揺れに揺れた。
決死の2人羽織状態で夕食をすませ、踊りだすコーヒーカップを手で抑え、何とか気を紛らわそうと見た映画は中国語字幕のアメリカ映画であった。
もぉ〜ふて腐れるほか手は無く、いかに乗り物に強い私でも、目を閉じれば地獄の乗り物酔いが待っているのである。
日付変更線を越え、窓のシャッターの隙間から薄日が漏れ始める頃やっと機体は安定飛行に移り、ヘロヘロの状態で周囲を見渡すと機中は乗り物酔い続出状態!
薄光に照らされたその顔は正にゾンビ〜!とてもこの世のものとは思えぬ集団であり、さながら地獄絵図の様である。
こうして殆ど睡眠を取っていない600人を乗せた747は、ホノルル国際空港へ到着しのである。

冬の日本海
1987年2月20日(現地時間)
飛行機から降りて、2両繋のトラムに乗車、エスカレーターを下るとイミグレである。
ボーッとした頭で長い列の後方に加わり、帰りのチケットにパスポートそして入国審査用カードを持ち待つ事暫し私の順番になった。
入国審査官は怖そうなお兄さんで、ニコリともせず私の顔とパスポートの写真を見比べている。
非情に徹したその顔には「何とかアラを探し出してやる」と言わんばかりで、
その後 幾つかの質問と応えが交わされたのであるが、釈放まではとても恐ろしく生きた心地のしない最悪の時間であった。
やがて彼は諦めたのか「行け!」と言わんばかりに首を右に振って私を促した。まったく何と無礼な態度であろうか!こうして私にとってのハワイ到着第一印象は必ずしも良いものではなく、
無礼千万イミグレ兄ちゃん
が強烈なイメージとして残ったのである。
なおもホノルルに向うバスの中でも不快な気持ちは続いている、車中から見る楽園ハワイの景色は鉛色の空と海、まるで冬の日本海である。今にして思えば2月ハワイは雨季であり、たまたま天気の良くない日に到着したのであろうが、私にとっては最果ての地に来てしまった心持である。
幸いな事に「さ○○かツアー」のスタッフはとても親切で感じが良かった、我々7人の集団は全員が初めてのハワイ上陸であり右も左も判らない状態であったため、地獄で仏状態であり本当に助かったのである。
そして今にして思えばお決まりコースである市内観光を済ませて、ウエルカムランチを食べながら諸注意を聞いた。やっと揺れない場所で食事をする有難さもあり、勧められるがままにオプショナルツアーを申込む最良のお客様になってしまった我々である。
次にホテルに案内され、部屋に入ると旅の疲れか強烈な眠気が私を襲う!しかし諸注意の通りここは一番眠らず外出する事にした。ホテルから見たホノルルのホテル街は、相変わらず冬の日本海でドンヨリとした雲の下に支配されている。
←到着日のホノルルの街アコモより撮影、画面をクリックして、ご覧下さい
夕食を済ますまで何とか起きていた私であったが,強烈な睡魔との戦いで苦しんでいた。何故遊びに来てこの様な苦しみに遭遇しなければならぬのか?甚だ疑問ではあるが、何とか眠る事が許される時間まで起きている事ができた。
やっとの思いでベットに入りウトウト始めた私に新たな試練が降りかかった!それはパトカーのカン高いサイレンの音で始まった。
目を覚した私は、何やら外が騒がしい事に気付いた、どうやら事件があった様だラナイから下の様子を伺うと真下のクヒオSTに大勢の野次馬と警察の車両が見えた。
何だろう興味シンシンで眺めている私に同行の者が、「殺人事件だよキット、さっき乾いたピストルのような音が聞えたし」と言うではないか、
冗談では無い!気の進まぬまま来た最果ての地で今度は殺人事件である。しかも現場はホテルの真下ではないか、いい加減にして貰いたいものだオチオチ寝ていられる状態では無いではないか!もし逃走した犯人がこのホテルに逃げ込めばどうなる、此方はチンチクリンなモンゴリアンの7人組みで全員丸腰なのだ!
結局私は緊張で眠る事が出来なくなった。しかたなく訳の判らない英語のTV番組を見て初日の晩を過す事になり、睡魔との戦いに命の恐怖が加わる最悪の夜となったのである。

ハワイアンウエザー
現地時間1987年2月21日
2日目の朝が来た、昨日は睡魔が勝利し何時しか深い眠りに落ち入った私である。殺人事件はどうもデマの様でニュースでも何も言っては居ない、結局酔っ払い同士の喧嘩の様だ。
とにかく私にとって最果ての地ハワイでの2日目がスタートしたのである。
目覚めと同時に部屋のカーテンを開けた私を、ある物が驚愕させた。
それは空であった昨日までの暗雲は消え其処には素晴らしい青空が広がっていいるではないか!まさに日本晴れである。
余談であるが快晴の空を日本で「日本晴れ」と云うようにイギリスでは女王陛下の天気「クイーンズウエザー」と呼ぶらしい, ハワイでのそれはさしずめ「キングカメハメハウエザー」と呼べば良いのであろうか?私はあえて「ハワイアンウエザー」と表現したい。正に驚く程の快晴の空が其処にあった、
しかもこの様な鮮やかで濃いブルーの空を私は今まで見た記憶が無く暫し魅入られ立ち尽くしてしまった空の色であった。
そして昨日までの沈んだ気持をこの空は吹き飛ばしてくれた様で、華やいだ気持に私をさせてくれた。
げんきんなもので気分が変わると急にお腹が減って来た、旅に来ての朝飯ほど楽しみなものは無いのである。早速私は滞在ホテル「ワイキキマリア」の1Fにあるレストランに足を運ぶ事とした。
1階レストランの入り口は白人さんで賑わっていた
店の入り口でホエっと突っ立っているとニコニコのウエイターおばさんが来て、何やらぐちゃぐちゃ言いながら私を席に案内してくれた。席について直ぐ、再びニコニコのウエイターおばさんがやって来た、そしてまたグチャグチャ言っているではないか。
何だろうと思い良く聞いて見ると、 「I have recommenda」としきりに言っている。彼女のお勧めは、どうやら「ジャパニーズ・ブレックファースト」らしい、私は普段朝食はパンなのであるがニコニコのウエイターおばさんが、あまり勧めるので「ジャパニーズ・ブレックファースト3ドル25セント」を注文した。
運ばれて来たそれは、ほかほかご飯に焼いた鮭の切り身、それに味噌汁という代表的な日本の朝食であった。ダダ一つ違っていたのは、鮭の切り身の大きさである。
つまりこのメニューのサケは途方も無い大きさなのである。切り身には違い無いのだが、分厚い輪切りなのである。なんと贅沢な焼き鮭定食であろう!
しかもウマイ!!のである。
今流行りの吉野家の朝定食など足元にも及ばぬ豪華さで、その時から食い物に弱い私は少しづつハワイが好きになって行く自分に気付いたのである。
朝食を済ませ立ち上がろうとした隣りのテーブルで、遅く起きてきた同行の者数人が朝食を注文している。何気に聞いていると、コーヒーをアメリカンで注文している奴が居る。(失礼、私にとって会社の先輩を捕まえて奴は無いのであるが!)ここはあえて奴呼ばわりさせて頂き、その奴がアメリカのコーヒーは全てアメリカンで有るのに気が付くまでに、そう時間を要しなかった。
食後カラカウア通に出て見た、そこで私が見た物は、そよぐ風に揺れるパームツリーと原色に彩られたワイキキビーチ(遠くダイヤモンドヘッドを望む)、其処にあったものは楽園と形容するにふさわしい光景であった。 ←楽園ワイキキビーチのイメージ(この時撮影されたものでは有りません。)
画面をクリックして、ご覧下さい

この日のオプショナルツアーはハナウマベイである。午前中に迎えのバスが来て、ハナウマベイへ向った。到着し早速ビーチでひと泳ぎ!なんと魚の多さと人を恐れぬその所業にビックリ。さらにビーチに寝転がりポカンっと雲を眺めていると、世の中の事や仕事の事など忘れ、ここで何時までもこの様にして居たいと思う心地のよいひと時であった。すかっり日焼けをし、ご機嫌で乗り込む帰りのバスであった、その車中には、たった一日にして出現した急造ハワイフリーク7人が居た事は言うまでも無い。

気になる夜
現地時間1987年2月22日
朝から異常にお腹がすいた!昨日と同じジャパニーズ・ブレックファーストを食べる。この日の予定はポリネシア文化センターだ、午後1時の出発のため、それまでの時間が自由時間となった。
私はアラモアナSCに行くことにし、クヒオ通りからバスに乗ったのである。(この時期はワイキキトロリーは走っていなかった様に思う)
バスに乗り驚いたのは、奇妙な綱が頭上に渡してある。一体これは何じゃいなと思っていると、客の一人がおもむろに綱を引く、すると次のバス停でバスが止まる!この様な仕組みを初めて見た私は、大いに関心すると共に緊張した。何故かと言えばアナウンスが無いので、いったいバスが何処を走っているのか全く見当が付か無いのである。
それどころかウッカリすれば乗り越してしまう事になる、だが案ずる事は無かったアラモアナSCでは殆どの乗客が降りて行き、私はただその流れに沿って降りれば良かったのである。
私は緊張すると腹が減る!早速プレートランチを 頬張り アラモアナSCを一周し、何も買わずにホテルへ戻った。
ホテルからPCCまでは長い道のりであるが、車窓より見るハワイ民家や小さな商店などが物珍しく飽きる事が無かった。
行く前には川崎民家園のポリネシア版程度に思っていたPPCも、行って見ると以外に楽しい、そして何と言ても留めは圧巻のポリネシアショーである。これにはさすがに度肝も抜かた!なんと言ってもスケールの大きさに脱帽と言った感じであり、感動のうちにPCCを後にした。
←ポリネシア文化センター、フィジーの風景・ 画面をクリックして、ご覧下さい
ホテルに帰り暫く酒などを飲んでいたが、一日の疲れから睡魔が襲ってきた。私としては比較的早い就寝となったが、ハワイにも慣れて落ち着いて眠れるとベットに飛び込んだのである。
しかし深夜の事、気持ち良く眠っている私を突然同部屋の者が揺り起こすではないか!
何事かと起き上がると、彼はこう言ったのである。「この部屋少し変だよ」何が変だというのだ、別になんでもないではないか!全く人がいい気持ち寝ていた処を揺り起こしやがって、 私は内心そう思ったが勿論口には出さず部屋を見渡した。
部屋の中は特に変わった様子は無く 、理由が不明確である。同室者はさらに言うのである、「何か居る」・・・・・!やっと飲み込めた。
つまりオバケ?
同室者の言うには、ベットに横になると耳元で人の囁きが聞えると言うのである。 結局原因は隣室のテレビの音と解ったのだが、同室者は未だナーバスになっているようだ。
この様にして滞在3夜中2夜の安眠が侵されながらも、 すでに日本に帰りたく無いと思い始めている自分に気づくのであった。

一日ブラブラ
現地時間1987年2月23日
明日は帰国となるこの日、決っている予定は夜のディナークルーズのみである。その為この日はほぼ一日フリーである、朝から1Fのレストランに行く定番の「ジャパニーズブレックファースト」はさすがに飽きた為、異なる物を オーダーした、内容はトーストにベーコンそれに卵料理である。やっとアメリカの朝食をGETした感じでヤヤ満足である。
それにしても、他にする事も無くDFSにショッピングに行ったり、ビーチやプールでプラプラしている事ばかりなので書く事が無い, 但し滞在中最も寛いだ時を過した日でもある。
ここで皆さんには、15年前のハワイが今と違う所を幾つか紹介しよう!まずホテルの部屋キーであるが、最近こそカードキーが主流でスマートな感じがするがこの頃のキーは、ゴッツイ鉄のカギに大きなホルダーが付いた厳つい物であった。
その厳ついカギを外出時にフロントに預けて行く、「キードロップ」と呼ばれる行為でフロント横の穴にカギを投入して行くのである。
また戻ってくると、フロントに行き「キープリーズ」と言ってカギを貰う一日何回この行為を繰り返しただろうか、英語が堪能でも否でも、必ずフロントで「キープリーズ」と部屋番号それに自分名前を言わなくては成らない。
今思うと良いコミニュケーションになっていたし、フロントに顔を売る事もできた。反面この制度には危険も伴い、部屋番号と名前が一致すれば誰にでもカギを入手できるチャンスがある。しかしやはり長閑なハワイの風景と言えなくは無く、私は嫌いではなかった。
その他、この時期カメハメハ大王像は修復中で廻りに囲いがしてあった。この翌年も私はハワイを訪れたのだがその時も修復作業は完了しておらず、 足掛け一年に及ぶ大工事であった様だ。
←工事中のカメハメハ大王像・ 画面をクリックして、ご覧下さい
さらに変な乗り物がワイキキを走っていた、名前は思い出せないが、人力車の様な乗り物を自転車で牽引する乗り物だ。それは観光様に外観は華やかで、ちょっと乗って見たくなる感じの物であった。
後に客との料金トラブルや交通事故の危険性を指摘され姿を消すのだが、この頃のカラカウアはこの乗り物が我がもの顔で走り回っていたのである。
今でも似たような物がタイあたりで観光客を乗せて走っているようだ、ともあれ時代の中に消えて行った風物詩であったと言えよう。
そろそろ、サンセットディナークルーズへ出発の時刻である。迎えの車に乗り港ヘ向かう、この時アロハタワーを見た記憶があるので、もしかしたら今と出港場所が同じであったかもしれない。
実は2001年夏にもこの当時の足取りを辿るべく、同じオプショナルツアーに参加した。それはポリネシア文化センターとサンセットディナークルーズである、PCCはI MAXシアターが増設されていが一番変わったと感じたのはサンセットディナーであろう!
ツアーの料金が格段に高くなっていた、15年前このツアーは確か30ドルか40ドル位であった様に記憶している。
さらに船も小さくステージも粗末であった、料理はチキン中心のプレートランチのような物で、ロブスターやサーロインステーキが出る今とは比較にならない。
只一つ今も昔も変わぬものは南海の楽園に沈む夕日であろう、その心に染み入る美しさは15年の時を越えて今も健在であった。
ともあれこの当時の私は大満足でこのOPツアーを終えたのである。

帰国
現地時間1987年2月24日
ついに帰国の日がやって来た。どうやらハワイは私を虜にしてしまった様だ。思えば気の進まぬままに始まったこの旅の行方が, この様な心境で終わりを告げるとは思ってもいなかった事である。
帰国便がホノルル空港を離陸する時、必ずまた帰ってくると心に誓った事を私は今も忘れていない。
この後、、私は大枚をはたき多忙な仕事の隙間を縫うようにしては、何度もハワイを訪れるのだが。
それだけの価値をこの島に見出し人生の価値観すら変えてしまった、この旅に私は今も感謝している。
最後までお読み戴き有難うございます。